2008年3月31日(月)
定年退職日
いよいよ上尾市の職員として最後の日を迎えた。出勤した朝一番で友人からどんな気持ちか尋ねられたが、うまく言葉にできなかったので、今夜日記に書いてみるよと答えた。しかし、今日は一日ばたばたとしてゆっくりと感傷に浸るように時間がなかった。
午前
9時から市長部局の退職辞令の交付式、1045分から教育委員会や水道部、消防本部などの退職辞令を受けた職員も合流して、感謝状贈呈式が行われた。午後1時過ぎから明日環境経済部の次長の辞令を受ける予定の二人に事務引継ぎをした。そのあと本庁舎内だけ最後のあいさつ回りをした。年度末で忙しい窓口のあるところはとばしてしまった。ひととおりあいさつも終わったところで、職員課に市章バッジと職員証を返還して、いよいよこれで事務室内には自由に出入りできなくなる、という実感がわいてきた。パソコンのプライベートなデータはすべて消去し、私物の荷物も課長たちに手伝ってもらって今日乗って行った車に積み込み、午後4時前にはやるべきことはすべて完了した。
5
時までの1時間ばかりの時間だが、何か30年と8ヶ月の公務員生活にピリオドを打つに当たっての感慨などをまとめようとしばらく腕を組んで考えていたが、思考停止の状態で何も言葉が浮かんでこない。そうこうしている間に5時近くになって管理職たちが近くに集まってきた。部長が声をかけたらしく何事かと思ったら、5時の終業の放送と同時に部長の発声で退職する私を拍手で事務室から送り出す、という粋な計らいをしてくれた。そんなことでそのまま庁舎に別れを告げて車で帰宅したため、最後に持って帰るつもりのロッカーの私物を忘れてきてしまった。
家に帰ると、妻がささやかなお祝いの手料理で夕食を用意してくれていた。自分としては期せずして結婚
6年後に妻と同じ職場で働くことになったが、結果的にはこのことが二人の間で共通の環境、人間関係についての話題があり、そういう話題をとおして、それぞれの考え方や生き方を確かめ合うことができたように思う。今日のあいさつ回りでも何人もの人に「夫婦ともどもお世話になりました」というあいさつもした。そういう点では大変恵まれた公務員生活を送ることができた。
しかし、そんな個人的なことはともかく、
26日の環境経済部の管理職の送別会の時にもう一人の退職者が退任のあいさつの中で言った「市民のために頑張った自分をほめてやりたい」という言葉がいまだに頭から離れない。自分はどれだけ「市民のために」頑張ったことがあったか?今まで出会ってきた人たちの顔は浮かんでくるが、その人たちが望んだことや欲したことにどれほどの満足度を与えたか、またそのために自分はどれだけ努力したか、何度自問自答しても自分をほめることはできない。おそらくこのことは今後何年経っても変わらないだろう。ただ、出会ったたくさんの人への感謝の気持ちは忘れないようにしたいと思う。
夜、妻との共通の友人が退職祝いに「ミツバツツジ」を家に届けてくれた。彼女からいただいた「サンシュユ」が北御牧に植えてあって毎年春の到来を告げる黄色い花を咲かせてくれているが、それに続くようにこれから「ミツバツツジ」が咲いてくれるとうれしい。
2008年3月30日(日)
軽井沢経由で帰宅
久し振りに4人の賑やかな朝食をとる。娘たちにどこかに出かけるか聞いたが、家でノンビリ過ごすというので、私のほうはまず、車のタイヤをスタッドレスからノーマルに交換する作業をした。こんな作業をいつまで自分で出来るかわからないが、何年もやってきたので、自分で言うのも変だが大変手際よくできるようになっている。段取りから片づけまで約40分で完了。
その後は、風がなかったので先日切ったケヤキの枝や他の木の剪定枝を燃やすことにした。大きな枝のまま残していたので、小枝を落とし太い幹をのこぎりで短く切り分けて薪にしてくべる、結構力の要る作業で時間もかかってしまった。全部は終わらなかったが、午後
3時過ぎに北御牧を後にして、軽井沢経由で帰ることにした。
旧軽井沢の目抜き通りをあちこちのお店を冷やかしながら歩く。雨も降り始めて結構寒かった。
1時間強過ごした後上尾に向かう。相変わらず関越道は渋滞で、普段の倍近い時間をかけて東松山インターを降りる。インター近くのレストランで夕食のあと長女夫婦を北上尾駅まで送った後浅間台の家に戻る。
いよいよ明日で公務員生活も最後だ。一足早く民間の会社を退職した友人からのメールが来ていた。いつもホームページをチェックしてくれている。彼はいよいよ退職後の新しい仕事として
4月から家裁の調停の仕事をすることになった。私のようにのほほんと自分のための田舎暮らしをする、というような生き方とは違う新しい道を開拓した。大いに刺激になった。まだ、引越しの日程は決まらないが、いずれ北御牧に落ち着いたら、今まで考えてきてことをもう一度整理して何をなすべきかゆっくり考え直してみよう。
2008年3月29日(土)
ワーキングプア
午前中娘たちを佐久平に迎えに行く前にと思って、先日途中になっていたケヤキの伐採を終わらせた。切り株で年輪を数えたら8年だった。土地を購入してから7年だから、前の所有者が前年に1年目の苗木を植えたことになる。わずかな年数で直径20センチ、高さ5メートルにまで育ったケヤキを切ってしまった、何か罪悪感めいたものを感じながらの作業だった。妻も切り株を見て「かわいそうに」とボソッと一声だけ発した。
娘夫婦は結局午後
2時半近い新幹線で佐久平に到着、遅い昼食を「草笛」でとった後北御牧に戻る。娘の夫は、4月から柔道整復の仕事を続けながら、さらにこれから3年かけて針灸の資格を取るため専門学校に通う。聞けば柔道整復の仕事はいまだに徒弟制度的な労働環境で、まともな賃金や福利厚生が保証されていないらしい。最低賃金も守られていないような労働条件に対しては、きちんと労働者としての権利は主張すべきではないかと、言ってしまったが、きっとそんなことをしたらすぐに失職する、という恐怖があるのだろう、ここにもワーキングプアの格差社会の現実を見たような気がした。
2008年3月28日(金)
最後の仕事
午前中事務引継書の最後のチェックをし、自分の事務机の整理をした。健康福祉部時代の仲間から心のこもった餞別をいただいた。
午後は最後の仕事として、生活情報センターに行きクレーム対応をした。相手は
80代の人だが実に元気でクリアだ。しかし、自分の主張を通すために相手への攻撃の手をゆるめない。この年令になってなお、さまざまなところへ出向き、自分の理論を開陳し、それに異議を唱えられると激高して反論する、そのエネルギーの源はどこから来るのか、残念ながらそれを突き止めることできなかったが、結局生活情報センターへの相談内容は、相談の域を超えるもので、最終的にはこれ以上市として助力することはできない、という断を下す結果となった。最後の仕事としては後味の悪いものになってしまった。
3時に終わった後本庁に戻るのは止めて、帰宅することにした。週末の北御牧への行き来もこれが最後かもしれないと思いつつ、早めの出発をする。途中佐久の「民芸」で夕食をとってから8時過ぎに北御牧到着。着いて間もなく、見計らったかのように長女から電話があり、明日お昼頃に夫婦で北御牧に来るとの連絡があった。
2008年3月27日(木)
最後の休暇
最後の休暇をとってゆっくりと家で過ごした。次女と孫たちが午前中に来ることになっていたので待っていたが一向に来ない。午後1時過ぎになって電話をしたら、一日勘違いしていたらしく、慌ててやってきた。あわただしくやってきて急いでお昼を食べ、孫とちょこっと遊んで帰っていった。孫たちがこの家で遊び、時間を過ごすのはこれが最後かもしれない、というこちらの感傷もあっという間に過ぎ去ってしまった。やはり引っ越す前にもう一度ゆっくりと長女たちも交えてここに集まろうと思う。
昨日、今日の陽気で桜が一気に咲き出しているので、孫たちが帰った後散歩に出ようかと妻を誘ったが、あまり気乗りのしない返事だったので散歩はやめてごろごろと家の中で一日を過ごしてしまった。
夜職場の同僚が、お世話になった御礼だといって素敵な萩焼の夫婦湯呑を持って来てくれた。こんなことをしてもらうようなことは何もしているわけではないので返って恐縮してしまった。
2008年3月26日(水)
苦い酒
午前中上尾駅西口の階段下に収納していた管理職のボランティア清掃の道具や軍手、ゴミ袋などを西貝塚環境センターの友人に手伝ってもらって片付けをした。先週の土曜日で管理職のボランティア清掃が完了したのと、上尾駅の改修工事でこの階段下も工事の対象エリアで、工事現場から片づけをせかされていたので、今日片付けることにした。
午後は、社会福祉協議会に退職のあいさつに行ってきた。福祉作業所のかしの木園の利用者にも会ってきた。いまだに会うと「園長先生」といって声をかけてくれる利用者もいる。しかし、何人かの利用者の名前が浮かんでこない。園長になったときは
30人近い利用者の名前を覚えるため、一人ひとりの顔写真を手に名前を復誦し覚えたのだが、異動後7年でもう名前を忘れて思い出せない利用者がいる。少し悲しい気持ちになってしまった。
夜は最後の送別会として環境経済部の管理職のメンバーが集まってくれた。私ともう一人が送られる立場で、もう一人の退職者は「市民のために頑張ってやってきた自分をほめてあげたい」とあいさつで言っていたが、私は翻ってとても自分をほめるようなことなどできはしない。かつて牧師になろうとしてなれなかった私にとって、市役所の職員になるということは、自分と家族の生活のためであって、仕事はもはや命をかけてやるようなものではなかった。もちろん与えられた仕事は、他人から後ろ指を指されるようないい加減なことはしないよう、やるべきことはきちんとやろうという思いはあったが、どこか仕事に対しては醒めた感情があったように思う。
30年と8ヶ月の公務員生活の中で、全部で15回も人事異動の辞令をもらっている。そのうち5回は機構改革や昇格だけのものなので、実際には10ヶ所を渡り歩いてきたことになる。もともと技術職のような特別の資格や技術を持っていたわけではないが、10カ所を渡り歩いてその場その場でそれなりに知識や理屈を学び、何でもわかっているかのように市民に対応してきたが、今振りかえると何一つとしてプロフェッショナルと言えるような知識や技術を獲得することができなかった。文書管理、計画作成、焼却処理施設、環境問題、地域福祉・・・結局初めから仕事に対するスタンスがいい加減だった結果だったように思う。そんなことを思いながら最後の送別会で飲んだ酒は何か苦い味がした。
2008年3月25日(火)
釣り仲間
今日は内示の日。管理職レベルの情報が飛び交った。新市長になって少しは新しい風が吹くかもしれない、という期待もあったが、概して失望感の方が大きかった。好き嫌いや選挙がらみで評価する前の市長と50100歩だった。今度の市長の出身である上平地区に関係する職員が重用される、いわゆる「上平人事」が横行しているようだ。
しっかり市民の立場で考え、努力する人、本当に行政マンとして力量のある人はまだまだ報われていない。それなりのポジションに据えれば、限りなくその才能を生かして、いい仕事ができるのにもったいないと思う。
夜は、釣り仲間が退職を祝ってくれた。
3年前に退職した先輩も同席。このメンバーと飲むときが、といってもみんなたいして飲めないのだが(今夜も4人で350の缶ビール4本とワイン1)、一番安らいだ気持ちで、心を許して飲み、食べることができる。今日も約3時間、釣りの話から仕事のこと、それぞれの私生活にいたるまでしゃべりまくりあっという間に時が過ぎてしまった。途中岩手在住の釣りの師匠に電話し、4月のゴールデンウィーク前に岩手での釣行案内の約束を取り付けた。退職後も付き合い続けたい仲間だ。
帰ってメールを開けたら、先日の同窓会で
42年ぶりに会った友人から3度目のメールが来ていた。何と仕事で我が家の目と鼻の先にあるブリジストンサイクルに毎年のように来ていたらしい。早速来月7日から始まる週のうちに会うことにした。
ホクシンハウスからも連絡があって、太陽光発電工事とエアコン暖房工事一式を約
20万円の値引きで、こちらの希望額でやってくれそうだ。
2008年3月24日(月)
庁議
9時から次長会議に出席。報告案件は2件でそのうちの1件は環境経済部からのもので、ボランティア清掃に関するものだった。平成11年から始まった管理職による上尾駅東西駅前通りのボランティア清掃を今年度限りで終了し、今後は市内20ヶ所の路線の清掃をする全職員を対象としたボランティア清掃に統合するという内容で、管理職の負担が少なくなった分全職員の清掃の回数を今までの年4回から6回程度に増やすことについて意見を求めたが、だれ一人として発言はなかった。やはり前市長のトップダウンで始まったボランティア事業の悲しさで、職員の中から自発的に行われたものと違い、誰でもが喜んで参加してきたわけではないことが推し量れて、悲しい思いになり、以前の日記にも書いた、自己申告制にして自分の住んでいる家の周りの道路を清掃する、という持論を展開するまでには至らなかった。今後については、4月の人事異動後に新しい環境経済部の中で検討したうえで改めて提案することにした。
午後は部長に代わって庁議に出席した。
10件の報告事項があり、各部長が淡々と報告し、こちらも特に質問や意見もなく終了する。民間で言えば取締役会、重役会議など経営の舵取りをする重要な会議だ。何時からこんな活気のない会議になってしまったのだろう。20年ほど前企画調整課に在籍して庁議の事務局として会議に同席している頃は、もっと部長たちがいろんな意見を出し合っていた。
今日の庁議で驚いたことのもう一つは、メンバーが全員揃ったところで市長が入室してくると、全員が起立して出迎え、市長の着席を待ってみんなが着席する、という形だ。こういうのを礼儀という人もいるのかもしれないが、私にはまるで主従関係を確認する儀式のように思えた。これでは自由な意見を言えるはずがない。
庁議の後に総務部から人事異動の内示書が各部長に手渡された。午後
4時過ぎには異動対象者に明日内示があることを知らされることになるので、庁議を終えて自席に戻った私に周りの視線がそわそわと向けられているのを感じた。私が知りえる情報は環境経済部に転出入する職員のみなので、明日ある程度の全容がわかったところで今回の人事に対するコメントをしようと思う。
夜は次長会議のメンバーで送別会が開かれた。次長会議のメンバーのうち、私も含め
4人が定年を迎えた。一人は18日からずっと休んでいて欠席だった。彼は割り切って有給休暇を全部消化するらしく、31日の退職辞令を受けとるまでもう出てこないと言っていた。残る3人は会の席上であいさつを求められた。私が最後にあいさつした。前の二人はそれぞれ今までの仕事の中で最も印象や思い出深い出来事について話していた。私は最後だったのでそういう話はやめて、市役所での自分のスタンスは、極力自分を相対化すること、自分の意見を批判にさらすこと、そのためにしっかりと意見を言うこと、それがお互いに批判し検証しあうことを通して高め合うことができる、そういうことを心がけてきたつもりだった、というようなことをしゃべった。ただ、そういう中で私の不用意な発言や態度で傷ついた人がいたら、ごめんなさい、赦してください、と。ただ、今日は内々辞の日だったので、みんなの話題はそのことで持ちきりだった。
2008年3月23日(日)
一日外仕事
今回の北御牧滞在は、活字離れの日々だった。新聞もなし、持ってきた文芸春秋にも一度も目を通さなかった。妻は厚めの小説一冊を読了した、と言っていた。私は今日も外仕事に明け暮れた。21日にし残した胡桃の木の移植をした。小さな苗木のときに買って植えたものだが、5年の間に直径5,6センチほどに育ち、根が横に伸びていて、やむなく途中で切った。まだ一度も実をつけていないので何とか新しい場所で生き残って欲しいのだが、去年芯食い虫に大きな穴を空けられているので心配だ。東御市は、胡桃の里として国内で有数の産地となっている。特にシナノクルミという大粒の実を付ける品種の本場である。農協を通してこのシナノクルミの苗を頒布しているらしいので、今度手に入れようと思う。くるみは、結実させるのに他の木のオシベのほうがよいらしい。
他にたまねぎの寒冷紗を取り外して追肥をし、ジャガイモの植え付けの準備で、苦土石灰を撒いてミニ耕運機で畑を耕した。さらに久し振りに車の洗車、ワックスがけもした。こんなことをしている間に日中の
1日があっという間に過ぎてしまった。
明日から
3日連続で送別会があるので、体調を崩さないよう早目に帰る事にして、午後6時に北御牧を出発した。相変わらず関越道がスキー渋滞で、結局家に帰り着いたのは、9時半になってしまった。こんなわざわざ混み合う時間の行き帰りもあと1回か2回ほどだ。
2008年3月22日(土)
渓流釣り
5時半前に起き、早めの朝食をとって今年初めての釣りに出かける。68分に家を出て、最初のポイントに着いたのは620分。秋田まで行くのと違って本当に近い。しかし、魚影は薄い。魚の数より釣り人の数のほうが多かった。最初のヤマメは初めて0.2号の糸を使って釣り上げたのに、網を使わなかったので糸が切れて釣り落としてしまった。その後にかかったヤマメ2尾とイワナ1尾はリリースサイズ。12時半過ぎまでやって、結局ヤマメ1尾を持ち帰り、夕食のおかずとして二人で分けて食べた。
午後は、快晴でポカポカ陽気に誘われて車で、明神館の近くの北アルプスが見える高台まで行って、まだ真っ白なアルプスを眺めたあと、東御市中央公園に行った。意外と公園の中は広く、芝生広場や子供が遊べる遊具もたくさんあり、桜の木も多いので桜の季節
(4月中旬?)にもう一度来よう、と妻とも話した。公園と一体的に二つの体育館、武道館、弓道場、グラウンドのほか、市民病院、総合福祉センター、福祉施設、老人介護施設などの公共施設が集中して建てられている。新しい施設も多く、東御市の財政は大丈夫か少し心配になるほどだ。
今夜は夜になっても家の中は
20度あるので、ホットマンを点けなかった。灯油も残り少なくなってきたので、何とかこのまま灯油を足さずに乗り切り、太陽光発電に切り替えられれば良いのだが・・・。
2008年3月21日(金)
結婚記念日
午前中NTTの電話の敷設工事があった。9時過ぎに来たかとも思ったらすぐに遥か彼方の電柱に登って工事を始めた。風も強く、高い所に梯子ひとつで昇り降りするのは、たった一人で大変だ。機械的なことはわからないが、家がまばらなので分岐する元のところが離れているらしい。ようやく家のところまで線を引っ張ってきて工事完了。早速自分の携帯から電話番号にかけてみる。まもなく何かの届出などで「自宅の電話番号」として必ず書くことになるので、早くインプットしておかなければいけない。娘たちに夜メールで新しい番号を送ったらそれぞれ早速電話をくれた。
午後は、義姉夫婦の家の建設予定地の四隅と中心点の地盤調査があった。こちらも一人で何もかもやっている。最近は、例のマンションの構造計算の偽装のいわゆる姉葉事件の影響で、住宅メーカーも地盤調査からしっかりやるようになったので結構忙しいらしい。義姉たちの家が建つため邪魔になる木の植え替えをした。ハナモモ、梅、アンズまでやったところで、時間切れと体力切れで終わりにした。まだクルミの木が残っている。
今日は
37回目の結婚記念日、結婚を決めてから40年になる。60年の3分の2を連れ添ってきたことになる。二人の共通の感想は、良くもったねー、だった。
2008年3月20日(木)
上田へ買い物
朝はのんびりと8時半までベッドにもぐっていた。昨夜からの雨が降り続いていて畑仕事もできないので、ジャスコや上田駅前のセゾン系のデパートのリビンが20日は5%引きの特売日ということもあって、上田へ買い物に行くことにした。退職記念に42日から23日の南九州旅行に行くので、そのときに着ていく春物の洋服などを購入した。
お昼は「こうや」というラーメン屋に入る。ガイドブックにも載っているお店で、お薦めのこってりした豚骨スープの醤油ラーメンを食べた。背脂が浮いた濃厚な味でそれが少し太めの麺にからみついていて、食べたときはたまらなくおいしく感じたが、家に戻ってからはおなかをこわしてしまった。妻は初めからこってり味は敬遠して、あっさり味の細麺の塩ラーメンを食べた。こちらは鰹だしのさっぱりした味でやはり年寄りにはこちらのほうが合う。狭いお店だがたくさん若い人たちが食べに来ていた。やはりこってり味は若者には向いているのだろう、食べながらみんな「旨い、旨い」と言いながら麺をかき込んでいた。
上田からの帰りは、大地という農家向けのホームセンターでジャガイモの種芋、キタアカリと男爵を購入した。
4月になったら植える予定。
2008年3月19日(水)
夜は北御牧
議会も休会となりあとは21日の最終日まで特に動きはない。最終日に4つの常任委員会の委員長報告があって、それぞれ委員会に付託されていた議案の審査結果が報告され、議決される。我々の所属する文教経済常任委員会の委員長報告の原稿は、議会事務局から依頼され、昨日のうちに確認し、チェック済みになっている。今夜は、与党で最大会派の議員たちと部長職の有志との懇親会が、議長が経営する料理屋で行われたようだ。
人事異動のほぼ骨格が決まったらしく、今日は外郭団体へ出向の内示を受ける者の意思確認があった。出向になると、公務員としての権利を失う部分も一部あるので、内示の前に一応本人の承諾を受けることになっている。環境経済部の中でも白羽の矢が立てられた者がいて、ひと悶着あった。新市長になって最初の人事異動が行われるので、
25日の内示が近づいてきて職員たちは浮き足立っている。どんな人事をするか、前市長のやり方とどう変わるか、どのような職員を評価するのか、戦々恐々としている。職員同士は長い仕事上やプライベート上の付き合いを通して、ある程度それぞれの力量というものはわかるし、どのような仕事やポジションが適正かそれなりに相互評価しているところがある。しかし、それが実際の人事ではそのようにはならないので、不満が生じたり足の引っ張り合いが行われたりする。なるべくそうした争いには巻き込まれたくないので、こういう時期は静観することにしていたが、そんなこととももう関係なくなる。
今夜は送別会もなかったので、
5時過ぎには早々と仕事仕舞いをして北御牧にきた。21日を休暇にしたので今夜から23日間まで5日間の滞在だ。雨の中の到着となったがさすがにお彼岸になって家の中はそんなに冷えていない。室温は14度だったがホットマンを点けると寝る前には19度まで上がっていた。
2008年3月18日(火)
まちづくり交付金
今日は議会の一般質問4日目最後の日となる。今日の一般質問のハイライトはやはり上尾駅改修事業についてだった。共産党の議員から、議会の調査権や市民の知る権利を侵害するような情報隠蔽体質について、自由通路を8メートルから20メートルに拡幅する必要性の根拠について問われた。
現在継続費で組まれている事業費は
40億円で市の負担が約36億円、そのうち国からの交付金が約16億円あるので、市の負担は約20億円と説明しているが、実はこの交付金は40億円の駅改修事業に交付されるのではなく、国土交通省の都市再生特別措置法に基づくまちづくり交付金制度を活用して、駅改修も含めた上尾駅周辺整備事業という事業費総額約53億円の事業を実施することが前提になっているので、今後さらにこの事業を行うために、地方債と一般財源で約16億円も市の負担が上乗せで必要になる。この後年度負担はおそらく21年度あたりの予算で詳細が明らかになると思うが、最初に18年度の継続費を組むときには、このあたりのことについて明確な説明を議会にしたような記憶がない。その後の200710月に号外で出した広報あげおに掲載した説明文ではとってつけたようにまちづくり交付金についても掲載しているが、関連性が分かるように説明していない。いずれにしても今後起債総額約21億円、一般財源16億円が5年間の間に市の新たな負担になってくるので、ほとんど新しい事業など組める状況ではなくなる。
夜は環境政策課で送別会を開いてくれた。最後の
2年間、部の筆頭課として面倒を見てもらった。環境経済部長も出席してくれた。9年間の西貝塚の仕事の後7年のブランクを経て戻った環境経済部だったが、昔とった杵づかで、環境政策課の仕事の一部は今までの経験も生かして、次長という立場からかかわらさせてもらった。そんな中で以前の日記にも書いた桶川市、伊奈町との広域ごみ処理施設の計画が停滞してしまっているのが心残りだ。斎場に隣接したコミュニティ施設の建設、環境基本計画の見直しや環境マネジメントシステムの確立、地球温暖化防止地域計画の策定などこれからも課題の続く職場なので大変だが、やりがいのある職場だ。ぜひ職員には頑張って欲しいが、来週には人事異動の内示があるので、皆が残れるわけではない。日銀の総裁選びではないが、戦力低下のない異動を考えて欲しいものだ。
2008年3月17日(月)
健康福祉部時代
先週に引き続き議会は、一般質問の3日目が行われた。環境経済部に関連した質問は二人の議員からあった。一人は新人議員で、食の安全について、生活情報センターにおいて外国産食品に関しての苦情、相談があるか、また食の安全に関する情報提供をどのようにやっているかとの質問だった。こうした現状を問うだけの質問は、答弁書も書きやすく控え室で待機していてもそれほど緊張感はない。まして、特に再質問は予定がないとの予告を受けているのでなおさらだ。
確かにこの食の安全の問題は、実際には市町村レベルでは何の権限もないので、ただただ消費者である市民が被害を受けないよう情報を提供し、注意を喚起するのみだ。一般質問のテーマとして取り上げるのには、アップデートな問題であり、市民受けしそうだが、実際には市から積極的な回答を引き出せるような問題ではない。
もう一人の質問は、路上喫煙防止条例に制定についての、検討状況と条例制定の意思を確認するものだった。この問題については、ほぼ内部的な検討が終わり、今後
6月か9月の議会には条例案を出せる段階まで準備が進んでいる。予算的な面で、当初予算に条例制定に伴う周知に関わる費用の計上が認められていないので、その点を今後補正予算で組めるかどうか企画財政部との調整待ちとなっている。そういう意味では、タイミングのいい質問ということができる。ひょっとしたらその辺の事情を議員が察知したのかもしれない。
夜は、
2年前に退職した社会福祉課長時代世話になった部長や当時の部内の課長だった有志4人が退職を祝ってくれた。当時の部長とは、環境センターで4年、社会福祉協議会で1年、健康福祉部で2年一緒に仕事をした。人の話をきちんと聞ける人で、こちらの気持ちを受け止めることのできる人だったので、仕事をしていても安心感があった。彼からは上司としてのあり方を学んだように思う。後の3人は戦友みたいなものだ。共に問題や悩みを抱えやり場のない閉塞状況の中、手助けできないながらもお互いに見守ることで共感し合っていたように思う。気が付いたら生ビール3杯を空けていた。
2008年3月16日(日)
ポチの引越し訓練
午後2時過ぎまでボーっと過ごした後、春のような陽気に誘われて北上尾のパパ(ショッピングモール)まで散歩がてらに買い物に出かけた。道すがらミモザの大木やサンシュユにみごとに黄色い花が満開になっている姿を観賞した。梅の木にはメジロが数羽飛んできていて花をついばんでいた。ウグイス色の体に真っ白に縁取りされた目が鮮やかだった。水仙やこぶしも咲き始めてこの辺はもうすっかり春の装いになっている。
駅前に出ると、昨日の横浜駅の雑踏に比べたら比較にならないが、こちらではいつもよりもはるかに多い人通りだった。生鮮魚介類のコーナーが寺泊の角上魚類から別の魚屋に代わって大売出しをやっていた。お店の中では、何人も知り合いにあった。長野に引越すと、しばらくはそういう光景はなくなって、完全な匿名社会に入ることになる。買い物の後は、ぐるっと回り道をして家に戻った。
妻は最近ハーネスを使って散歩をするなど飼い猫ポチの引越し訓練を始めているが、今まで一度も車に乗せたことがなかったので、散歩の後ガソリンを入れに行くついでに、乗車訓練をすることにした。妻が抱きかかえて車に乗り、走り出すと緊張して体が固くなり、鼓動が激しくなったらしいが、暴れだすことはなく外の景色に目を丸くして視線を送っていた。さすがに、普段はおしゃべり猫なのに一言も声を発しなかった。ガソリンスタンドからの帰りには、背伸びをして窓に近づき一生懸命外を眺めるようにまでなった。歳をとっても好奇心は人(猫)一倍だ。車中滞在約
20分だったがまずは初めての乗車訓練は成功し、お駄賃のお刺身を貰っていた。愛猫ポチが北御牧の生活に順応できるかどうかが最近の我が家の重大問題で、そのためになかなか引越し日も決められない原因のひとつになっている。
久し振りに長女の声を聞く。パソコンの購入を考えているらしく、アドバイスを求められたので少し調べて見ることにした。
2008年3月15日(土)
同窓会
今週は北御牧に行かないことにしたので、今朝は久し振りにゆっくりと8時過ぎまで寝てしまった。聖光学院3期生の同窓会に出席するため、北上尾1547分発の湘南新宿ラインに乗車、17時ちょうどには横浜駅に着いた。本当に近くなったものだ。横浜駅でみなとみらい線に乗り換えてみなとみらい駅まで行くのに駅の構内で乗り口がわからず、初めは東口のほうに行ってしまい見当たらないので、西口のほうへ引き返して初めてみなとみらい線が昔の東横線と地下駅で接続されていることが分かった。みなとみらい駅についてからも浦島太郎状態で右を見ても左を見ても高いビルに囲まれていて、目的地のパンパシフィックホテルにたどり着くのに時間がかかってしまった。
同窓会の開会前に、早めに行って
10数年ぶりに大阪からやってくる友人に会うことにしていた。会場前に着いてまもなく友人もやってきた。お互いにそれぞれの近況を息も継がずに一気に語り合った。39日のNHKの朝の番組の「経済羅針盤」でそこの会長が登場していた大企業に勤め、その関連会社に長く出向し、代表取締役の職も約束されていたらしいが、経営のあり方をめぐって意見の違いから自分なりの筋を通して辞任したということだった。淡々と語っていたがおそらく言葉に尽くせない葛藤の上の決断だったのだろう。しかし、今まで世の中にお世話になったお返しとして、翻訳の仕事に関わるほか、家裁の調停員の仕事にも4月から就く予定だという。わが身を振り返って、そういう視点でこれからの生き方を考えていなかったので、大いに刺激になった。
6時半から始まった同窓会では、中学、高校時代から数えて、42年後のそれぞれの年輪を刻んだ顔がそこにあった。髪が白くなっていたり、薄くなっていても顔からにじみ出てくる雰囲気がまったく高校時代と変わらない人、体型も雰囲気もすっかり変わってしばらく話していてもどうして当時のことを思い出せない人など、200人の同窓生のうち70人が集まったので、一人ひとりお互いの記憶を手繰り寄せながら思い出話に話が咲く。しかし、人の印象や思い出というのは、それぞれ違った形でそれぞれに沈殿されているらしい。共通の思い出でも話し合ってみるとまったく違う印象として受け止められていることもあった。それにしても私のことで自分以上にクリアに記憶してくれている人がいて新鮮な驚きがあった。
しかし、こうして
40年以上経って集まってひと時を過ごすというのは、何なのだろうか?5年前の同窓会に出席したときは、まだそれぞれ近況としてどんな仕事をしているかが、話題の中心だったが、今はその仕事からリタイヤしはじめた頃なので、今回はやはり話題は過去の聖光学院時代のことになっていた。今までの仕事を通した社会的なステータスから離れたとき、記憶の中に残されていた若くて青かった時代の自分の存在をもう一度呼び起こしたくなるのだろうか?10年前までだったら、こういう同窓会には決して出よう、出たいと思っていなかったのに・・・。何人かの人から「牧師になっていなかったのか?」と聞かれた。私の行く末に関心を持っていた人もいてくれたらしい。二次会で発言を求められたので、簡単にこれまでの経緯とこれからの田舎暮らしについて話した。高校時代同じ教会に通っていた友人の一人も今度の同窓会でその訃報を聞いた。彼についてはここでは書けない苦い思い出もある。オフコースの小田和正が今回も顔を出していた。中学のときの運動会の仮装行列のことなどを思い出話に話をした。
午後
10時を回ってまだ二次会は続いていたが中座してあげおに戻った。北上尾に着いたときは12時だった。酔いも醒めてしまったせいか、今日一日の刺激があまりに強かったのか、なかなか寝付けなかった。
2008年3月14日(金)
行政課時代
今日は中学校の卒業式があったので、議会は休会。静かな、ゆったりとした?一日を過ごした後、夜は、行政課(現在の庶務課)時代からの仲間が中心になって送別会を開いてくれた。
市役所に入って約
7年経った847月、当時異動日が7日だったので「七夕人事」と言われたが、行政課では庶務文書係長という「長」の付く職責に初めてなった職場だった。異動して数日後には、新採用職員に文書事務の講義をしなければならず、異動の内示を受けてからその準備をする羽目になったことを覚えている。
この職場には
39ヶ月在籍したが、この間に文書の管理システムを、従来の簿冊形式から、統一したマニュアルに従って保管用キャビネットに文書をフォルダー単位で収納する、クロガネ方式のファイリングシステムに切り替えたことが、最も印象に残る仕事だった。3年間で全職場に導入する計画で2年を経過した時点で異動になってしまった。すべて導入の終わった時点での、そのあとの維持管理のシステムをしっかりと構築することこそが最も大事だと思っていたので、その作業に関われなかったことが今でも悔いが残っている。昨日、ファイリングシステムの導入の際お世話になったコンサルタントが挨拶にきた。かつて私が在籍したことのある社会福祉協議会のファイリングシステムの指導に来たのだが、そこで私が定年になることを聞いて、指導の帰りに寄ってくれたとのこと。彼とは、出身も同じ横浜で、年も近いことから仕事以外でもいろいろなことを話した記憶がある。
行政課時代は、年齢的には
30代後半から40代に差し掛かる頃で、子どもたちが思春期を迎え、父親としてどう対応していいか思い悩む時期でもあったし、家のローンも抱えて大変な時期だったが、自分で言うのも変だが、まだ仕事へのエネルギーも旬だったように思う。そしてその頃に出会った職員との人間関係が退職を迎える今日までの大きな支えとなり、励みとなり、癒しになってきたように思う。また、その頃学習した文書の作成や管理の方法、ワープロの操作などは、今の仕事や生活の基礎になっている。
2008年3月13日(木)
西貝塚時代
議会の一般質問2日目、今日も5人の議員が登壇した。最初の議員は、1回目の質問の最後に、当局に「簡潔にわかりやすくかつ詳細に答弁するように」といって失笑を買っていた。質問した張本人が、むにゃむにゃと聞き取りにくいしゃべり口で、何度も同じような内容を繰り返す質問をしたあとだったからだ。
2期目の議員で毎回質問する議員は、17回目と自分で言っていたが、毎回盛りだくさんの質問項目となる。今回も、環境経済部の農政課、商工課、西貝塚環境センター、生活情報センターの4課にそれぞれ質問があり、答弁書は14ページにもなり、部長の答弁は、早口で読んでも15分はかかってしまった。この議員のパターンは、いくつものテーマを毎回ないしは2回に1回ぐらいのペースで、一般質問のたびに進捗状況を尋ね、要望を重ねていくようになっているので、答弁書を書くときは、実際に進捗があればその成果を、ない場合は前回の答弁にどう変化をつけるか工夫しながら、文章を練っていけばよい。
今日の新人議員の質問では、こちらで質問要旨を手直ししたものが採用されていたようだ。
夜は、
9年間在籍した西貝塚環境センターの施設建設工事と周辺の地域整備に一緒にかかわった仲間から「新出立を祝う会」の歓迎を受けた。共に苦しみを負い合い、喜びも悲しみも分かち合った仲間たちなので、思い出す出来事に枚挙の暇がなく、あっという間に閉店の10時近くになってしまった。
この仕事に就く前の企画調整課の職員のとき、時代はちょうど昭和から平成に変わったころになるが、市の総合計画の見直しをしていて、上尾の将来都市像をそれまでの「緑豊かな、ふれあいのある、文化薫る都市」から、ワンフレーズで誰もが諳(そら)んずることのできるような都市像を考えようと、みんなで知恵を絞って、これからは「環境」がキーワードになるから「人と地球にやさしい都市・あげお」にしよう、そして自分としては、その「環境」の現場でぜひ働いてみたい、と自己申告書(毎年自分の異動希望を申告するもの)に書いて出した結果、
90年(平成2年)4月から西貝塚環境センターに異動になった。
それからの
9年間、老朽化した焼却施設の建替えの同意を地元からもらうことから始まって、処理能力日量300トンの焼却施設の建設、地元の公民館の建設、道路・公共下水道・都市ガスの整備、余熱を利用した温水プールや風呂を備えた健康施設「わくわくランド」の設計など、仕事としてやった結果が、可視的な形で残るという大変恵まれた職場だった。
環境センターというマイナスイメージを払拭する企画として、ホタルの飼育小屋を建て、ホタルの幼虫を飼育して、環境センターの緑地に作った池とせせらぎに育った幼虫を放ち、成虫になったホタルが飛び交うようにするという事業も思い出深い。
2008年3月12日(水)
新人の一般質問
昨日の夜、ホームページの編集に没頭した。いままでJCOMのサーバーに、それぞれテーマ別に3つのホームページをつくっていたが、4月にはJCOMを解約しなければならないので、新しく移したレンタルサーバのほうに一つにまとめる作業を、ぽつぽつとやって準備してきたが、夕べそれを簡単に出来る方法がわかったので、一気に一つに統合する作業を完了できた。もう一つ北御牧で契約している上田ケーブルビジョンのほうに作ってあるホームページ「ジイとバアの家づくりPARTU」も今月中には一つにするめどがついた。
今日は議会の議員の一般質問の初日だった。今度の議会に一般質問で登壇する議員は、先日書いたように
20人なので、4日間5人ずつで行われる。初日の今日登壇した5人のうち2人が新人議員だった。最初の一人は去年3月まで同じ職場で働いていた議員だ。組合の書記長、委員長を経験していただけあって、初めてとはいえ堂々たるものだった。特にここ10年上尾の環境政策が後退してきた原因に、トップの姿勢があったことを指摘していた。
確かに前市長は、環境問題に積極的に取り組む市民グループに対して、選挙の際には自分には投票するか、しないかという基準で判断するような人だった。職員にも、今の行政に批判的なことを言う人を遠ざけるよう指示してくるような人だった。そこでその議員は、新市長には、環境政策の推進にリーダーシップをもって積極的に進めていく決意を求めて、答弁を迫ったわけであるが、「その時がくれば適切に判断する」という市長の答弁を引き出した。
それに引き換え二人目の民主党の新人議員には驚いた。登壇しての第一声が、新市長の当選に対するお祝いのエールだったからだ。今度の市長選では、民主党としての推薦はならなかったものの、この議員を含め
3人の上尾の民主党市議会議員が応援し選挙運動の中心になって担いだのは今の市長ではない別の候補者だったはずだ。いくらその選挙に負けたからといっても、初めての一般質問の冒頭に、選挙で戦った相手に媚を売るような発言をするとはあきれたものだ。しかも一般質問の内容も深みのない薄っぺらなものだった。
こんな無節操な姿勢を最初の一般質問で見せてしまったこの議員は、これから
4年間他の議員にも、職員にも舐められ続けるだろう。そして、こんなことを言わせた民主党の会派そのものも・・・。
今日は仕事が終わった後、最後の管理職による防犯パトロールだった。二月に
1回のペースで順番が回ってくるこのパトロールだが、市内の刑法犯の発生件数がパトロールを始めた年から毎年前年より減少しているので、それなりに効果があるということで続けられている。しかし、ここのところまたまたダーティな事件で上尾が注目されている。無理心中と見られる3人の焼死事件、ビルのオーナーが店子の女性経営者とその友人に殺されて荒川の河川敷に遺棄された事件、さらに上尾在住の川口市立高校の校長の脅迫事件と立て続けだ。それぞれ上尾の地域性と関連があるとは思えないが、それだけ上尾も都市化され人間関係の希薄化が進んで、犯罪の抑止力がなくなっているのかもしれない。こんなパトロールなどしなくてもすむ安心、安全なまちにはもう戻れないのだろうか?
2008年3月11日(火)
文教経済委員会2日目
委員会の審議が午前中の教育委員会関係の当初予算の審査を経た後、午後一番で我々環境経済部関係の職員も合流して再開され、当初予算の議案は共産党と無会派の委員二人の反対、その他の4人の賛成で採決された。反対の理由に挙げられた上尾駅の改修工事については、バリアフリー法に基づいてJR自身がやるべき事業を、市がそれに合わせて自由通路の拡幅を要望したために、本来JRがやるべきものまで市の負担になっているのではないか、という基本的な部分での疑問が払拭されない現在の事業費の負担割合では、納得できないというものや、学校の耐震化工事などとのプライオリティで納得いかないのと、JRの言いなりになっているような状況から反対であるというものだった。そうした反対意見に対してしっかりと論理的な説明ができなかったのは残念だ。委員会に出席し、委員の質疑に答弁する姿で、管理職の力量や人間性も白日の下に晒される。
2008年3月10日(月)
文教経済委員会
午前中から文教経済常任委員会があった。午前中は議案の審査に先立って行う現地調査で、耐震補強工事やトイレ改修などの大規模修繕をした小学校とコミュニティ施設の建設予定地へ行った。昭和40年代から50年代にかけて上尾市は全国的にも上位にランクされるような人口急増の中で、学校建設と保育所を最優先に整備してきた。小学校22校、中学校11校、保育所16所。今日行った小学校も昭和42年に新設し、45年には増築している。その後も毎年1,2校ずつ新増築をしてきた。それらの校舎は、昭和56年に改訂された耐震基準をクリアするためには、新たに補強用の鉄骨の筋交いを入れなければならない。校舎の規模によって費用は異なるが、数千万円から数億円かかる。校舎を作る時は、補助金や起債が付くが、こうした耐震工事の場合はいろいろ制約があって補助金や起債が難しいらしい。今の上尾の財政力では、全部の学校を耐震補強するのに頑張っても平成25年度までかかる予定だ。
やはり、上尾駅改修工事及び駅周辺の整備で約
53億円の事業を組んでしまった影響が大きい。駅は多少不自由でも、命にかかわる影響はほとんどないが、阪神淡路大震災級の直下型地震がくれば、耐震基準を満たしていない校舎が耐えられる保証はないし、何時くるかも誰にもわからない。すべて工事が終わるだろう平成25年度まで大地震が起こらないことを祈るしかない、などということは許されない。何を優先して事業を採択するか、冷静な政策的判断をすれば自ずと今のような状況にはならなかったのではないか?
委員会の審議では、上尾駅の改修工事の負担金の積算根拠や市と
JRの負担割合についての質問に対する答弁が的確性を欠いたため、紛糾し午後5時過ぎまで会期が延長された。やはり情報の開示にとどまらず、聞かれた事には誠意をもってしっかりと答える真摯な態度が必要だ。
夜番組の途中からだが
TBSテレビのシリーズ激動の昭和「310日東京大空襲」を見た。警視庁の写真係だった石川光陽という人が東京大空襲の直後の惨状を撮影した33枚の写真や生存者が描いた絵をもとに、東京大空襲、さらには太平洋戦争の意味を改めて問うドラマだ。戦争という状況の中で行われる焼夷弾投下による無差別、大量の殺戮が、この63年前の東京大空襲で終わることなく、その後のベトナムでのナパーム弾、現在のイラクやアフガンでのクラスター爆弾の使用という形で続けられていることを告発する内容になっていたと思う。イージス艦事故のときも思ったが、所詮兵器や軍備は人殺しのための武器以外の何ものでもないということだ。なんとしてもこの世の中からなくさなければならないものなのだ。核開発にしろ軍事力の増強にしろ、それをすればするほど人類の破滅、地球破壊に近づくことを知るべきだ。
2008年3月9日(日)
日曜日はいろいろ
朝から好天気で気温もぐんぐん上がった。午前中はミニ耕運機で畑を耕した。そろそろジャガイモを植える準備をしなければいけない。もみの木の日陰になっているところは、耕耘機も刃が立たずにすべってしまう。まだ土の下は凍っているのだ。陽が当たるところは寒風に晒されていて、耕運機で耕すとさくさくとこなれていく。
畑の一部は今後義姉夫婦の家を建てるので使えなくなる。引っ越したら別の土地を借りて耕作できるようにしたいと考えている。隣接地の不在地主に、不動産屋を通じて打診しているがまだ返事がない。不動産屋の話では、隣接地ではないが近所の人が無償で貸してくれる、と教えてくれた。腰を落ち着けたらどちらにしても畑を借りることにしようと思う。
ジイ小屋の南側で、義姉夫婦の建てる家との間にあるケヤキの木を切ることにした。土地を買った
6年前、1メートルにも満たない苗木のようなものだったのが、高さ3メートル以上幹の径20センチにも成長した。これから更に成長したら手に余ってしまう。毎年暑い夏場に気持ちよい木陰を提供してくれたので、少しかわいそうな気もしたがケヤキは宅地には不向きだ、と思い切ることにした。
先日購入した電話機に付属している子機が、ジイ小屋で通話できるか試したところバッチリ通話できた。これで、子機をジイ小屋に置いて作業にこもっていても母屋の親機と連絡できるので、一安心だ。
21日に電話の工事がある。その日は最後の休暇をとって前日の春分の日をあわせ4連休で北御牧に滞在する予定でいる。来週は土曜日、横浜の同窓会に出席するため北御牧行きは見送りだ。
2008年3月8日(土)
午前8時からの最後の管理職のボランティア清掃に参加してから、北御牧に向かった。すっかり陽気が春めいてきている。関越道は、東松山のインターから入ると同時に渋滞が花園インターの先まで続いていた。スキー渋滞の帰りに巻き込まれるのはここのところ毎週のようだが、行きに渋滞になるのは珍しい。やはりこの時期土曜日の午前中は混むのだろうか?
お昼ごろ佐久のジャスコに着いて、食料を調達してから北御牧に到着。風邪薬のせいか、昨日の仕事中と同じように運転中に眠くなり、眠気を抑えるのに苦労した。昼食後昼寝などをしていたら、浦和レッズ対横浜マリノスの試合を見はぐってしまった。0−1でレッズが負けたようだ。見ないでよかったのかもしれない。
夜はボクシングの世界タイトルマッチ戦を見た。しかし、相変わらず
TBSの放送はひどい。7時からの番組なのに、実際に試合のゴングがなったのは8時だった。どうせ30分ぐらいは始まらないだろうと思って、NHK7時からのニュースを見終わってからチャンネルを合わせてもまだ全然始まる様子はなく、選手入場も時間はかかるし、おまけに君が代などまで始まりそうなので8時まで他のチャンネルを見てから、まわしてちょうど良かった。チャンピオンの内藤など例の亀田兄弟の一人との対戦まで知らない存在だったが、その試合後の亀田親子への対応をみてファンになったものも多いのだろうか、逆に視聴率を稼ぐ対象になったようだ。
早いラウンドで
KOされるのではないかと見ていたが、最終ラウンドまで闘って、ドローだった。亀田長男のような疑惑の判定ではなくてよかった。決して強いチャンピオンとは思えないが、死力を尽くした後、抱き合っていた健闘を称えあっていた両者の姿にさわやかな印象が残った。ぎらぎらした感じの亀田親子と違い正直に本音で語る飾り気のなさが好感をもたれているのだと思う。
2008年3月7日(金)
ボランティア清掃
昨日あたりから風邪なのか花粉症なのか、くしゃみが出たり、目のふちや喉などが少し痛くなったりして、あまり体調が良くない。たいした仕事もなく、緊張感もないせいか日中時々意識がもうろうとなる睡魔に襲われた。眠気覚ましに上尾駅西口の階段の下にある管理職のボランティア清掃の道具置き場まで行ってきた。先日市長と協議して管理職のボランティア清掃は終わりにすることにしたので、今月の明日と第4土曜日を残すのみとなった。軍手やごみ袋を補充するために持っていったが、まだ在庫がいっぱいあった。補充するよりもあとで引き上げるようにしなければならない。最近管理職の参加も減っているので、思った以上に軍手やごみ袋が減らず、余ってしまっている。明日は、私の所属するグループが当番に当たっている。何人来るかわからないがこれも今回が最後になる。
帰りみちにあるドラックストアのイイズカが別の名前に変わっていた。そこで風邪薬を買って帰った。レシートや買った薬を入れる袋はまだイイズカのままだ。看板も古いものをはずしてあるが、汚れで透かし彫りのように古い店名が残っている。ずいぶんと急な変更だ。ドラッグストアチェーンの再編が進んでいるのだろうか?急激な店舗の展開を図ったイイズカも競争に負け、負債を抱えてスギ薬局に企業買収されてしまったのだろうか?この業界も規制緩和でコンビニ化し、昔のイメージの薬局はどこにもなくなってしまった。
2008年3月6日(木)
ヤマダの驕り?
一日中、議会の一般質問の答弁書のチェックや取りまとめの作業で終わってしまった。面白いもので、答弁書の内容を読むと書き手の職員の個性や力量が文書に現れるのがよくわかる。それと質問する側の議員の準備の状況も見えてくる。中には、答弁書の下書きを読んでからもう一度質問の趣旨を考えたいので、答弁書を先に早く欲しいという議員もいる。こうしたやり取りや委員会で質疑を通じて、特に新しい議員の場合はその考え方や力量を読み取っていく。しかし、そんなこともこの3月議会でもうおしまいだ。
妻からメールで、コジマから電話機の部品が入荷したという連絡があったと知らせてきたので、帰りにコジマに寄った。注文した部品を受け取るときに確認したら、品番がわかっていれば電話でも注文を受けてくれることがわかった。やはり佐久のヤマダ電機の電話による注文は受けないという対応はおかしい。まして郊外型の店舗立地で、車で行かざるを得ないような場所へ、何度も足を運ばせるような対応は、ヤマダの驕りか?納得いかないのでメールで苦情を送ってしまった。
2008年3月5日(水)
情報公開とは
議会が開かれ、提出議案に対する質疑が行われた。上尾駅改修工事に対する質疑では、予算の額の算出根拠の提示が求められた。積算したJRが非公開を原則としているので、公開できないという答弁をしたために紛糾し、早い時期にJRと交渉して了解を取り付け、資料を提出する、ということでその場は収まった。
ここで詳しい経緯は書けないが、改めて行政情報とは何なのか、を思う。本来行政にかかわる情報は、住民のものであるというスタンスに立てば、自ずとどうすべきか明らかなのだが、どうしても職員は、情報は自分たちのもので、何を公開し何を非公開とするか自分で決められるように錯覚しがちだ。特に都合の悪いものや批判にさらされるようなものは隠そうとする。
上尾駅の改修工事は特に今度の市長選挙の争点の一つだった。積算根拠やそれに基づく市とJRの負担割合については、積み上げた数字がちょうどJRの負担が1割になったこともあって、過大に市が負担するようになっているのではないかとの疑念を抱かせた。もともとバリアフリー工事だけなら、こんな巨大な事業費にはならなかったし、本来JRが主体的に行うべきものになったはずのところ、市の持分である自由通路を現状の8
mから20mに拡幅するという選択をしたところから端を発して、大きな事業費に膨らむ結果になった。この駅の改修工事を継続する、というマニフェストを掲げた市長が当選した以上事業を進めていくことになるが、後年度にわたって大きな財政的な負担を負うことになるのだから、きちんと市民が納得するまで説明し、情報を提供する努力を惜しんではいけないだろう。
夜は、それぞれ2年間在職した社会福祉協議会と社会福祉課の当時一緒に仕事をした職員の有志が、「新たな門出を祝う会」を催してくれた。市の職員として
308ヶ月在職した中で、この福祉の現場での仕事は、最も密度が濃く、充実したものだったと思っている。仕事の中身もさることながら、人間関係も良好なものだった。福祉にかかわる人たちの気配りや思いやりが仕事をする仲間にも及んでいたからだろう、どちらもとても居心地のよい職場だった。3時間の宴会はあっという間に過ぎてしまった。その後、元社会福祉課の職員とは、恒例のカラオケ店へ行った。みんなそれぞれ持ち歌のほかメッセージ性のある歌を選曲して歌ってくれた。妻から禁止されている人前でカラオケを歌ってはいけない、というタブーを犯して小林旭の「惜別の歌」を歌ってしまった。
2008年3月4日(火)
産廃処理
産業廃棄物の中間処理施設の拡張計画に対する意見を県から求められたので、廃棄物処理審査委員会が開かれた。市内の工業団地内にある事業所で、すでに実績もあるので表面的には特に問題がない。しかし、こうした廃棄物処理に付随する騒音、振動、粉塵、悪臭など周辺に及ぼす環境影響は、基準が緩やかなので規制できないが、決して良好な状態とはいえない。現に今回拡張する場所は、以前に他の会社があった跡地だが、その会社はあまりの環境の悪さに移転していったということだ。さらにその奥の会社も今は閉鎖している。
産業廃棄物や市町村が扱う一般廃棄物の処理施設は、廃棄物がある限り必要不可欠なものだが、環境への負荷を少なくするためのコストが必要なことはなかなか理解されない。安価な方法で、コストをかけずに施設を作れば、周辺への環境汚染はもとよりそこで働く従業員の健康も蝕む。
市町村が設置する焼却処理施設は、住民の数多くの反対運動を通じて公害防止技術の開発が進み、安定した施設の運転管理をしている間は、ほとんど周辺の住民が健康被害を受ける心配がなくなってきている。しかし、利益優先の経済原則が基本の産業廃棄物の世界では、まだまだ立ち遅れている。これ以上コストをかければ、資源はみな中国はじめ東南アジアなど処理コストの低い海外へ流れていってしまう、という論理がある。しかし、食品の安全とも通じることだが、安価なもの、便利なものとの引き換えに命を削ってしまっては元も子もない。
仕事の帰りに、やはり帰り道にある電気店ノジマに寄った。最近のハイスペックな液晶ハイビジョンテレビの説明を聞いた。画素数が多くなり、早い動きの画像にも残像感が残らない、と一生懸命説明してくれたが、ブラウン管テレビを長年見てきた者にとって、半分の値段で売っている普通のハイビジョンテレビでも十分なような気がする。なかなか踏ん切りがつかないまま店を後にした。
2008年3月3日(月)
ルール違反?
午後、文教経済常任委員会委員長の属する会派の有志の議員のために、委員会で審議される補正予算、当初予算の概要を部の全課長が出席して説明した。委員会の前に全課長が揃って、議案内容を一部の議員に説明するというのは今までなかった。そういうことは委員会での審議を軽視することになるので、本来から言えばルール違反だ。執行部側からみれば、最大会派の議員に事前に説明し、本番の委員会であれこれ想定外の質問が出て立ち往生するよりは、こうした私的な会合ででもある程度根回し的にやっておけば、問題が少ないと思うわけだが、これでは執行部と議会との緊張関係も無くなってしまう。私が休んでいた1週間の間に、新しい委員長からの要請で段取りが決められていた。こういうことは今度の一回限りにして欲しいものだ。
帰りにコジマ電機で、電話機の壁掛け用部品の取り寄せを注文した。佐久のヤマダ電機に電話で頼もうとして無碍に断られたものだ。入荷次第連絡をくれることになった。取扱説明書に書いてあった定価の一割引の値段だ。電話機本体を購入したお店でもないのに、何も言わずに注文を受けてくれた。こういう対応をしてくれるとまた、何か電気製品を買おうかという気になる。それに引き換え佐久のヤマダ電機には二度と買いに行く気にならない。
ガソリンスタンドの前を通ったら昨日入れた値段より
4円も上がっていた。
2008年3月2日(日)
打ち合わせ
ホクシンハウスとの3度目の打ち合わせをするために午前中に義姉夫婦が来た。打ち合わせ場所が上田の新しい展示場のほうで行うので、上田駅前の再開発ビルの中のホテルつきのレストランで昼食をすることにした。このレストランは何度か利用したことがあって、我々としてはお勧めの食事どころである。ランチメニューは、メインディッシュのほかバイキング形式で煮物や胡麻和え、スープやお新香などのほかプチケーキやゼリー、杏仁豆腐などのデザートも食べられる。もちろんコーヒーやジュースもお代わり自由だ。義姉夫婦ともども満足したところで打ち合わせ場所に行った。
午後
2時から4時半までたっぷり打ち合わせ、どうやらある程度間取りについては固まってきたようだ。来週には地盤調査や設計用図書作成費用などの内金を支払う話になった。これで建築に一歩前進した感がある。
いったん北御牧に戻ってからそれぞれ帰り支度をして上尾に戻った。我々も渋滞に巻き込まれたが、先に出た義姉たちもやはり渋滞に巻き込まれたようだ。この時期は、学生たちも春休みになったのか、いつもスキー渋滞が起きる。夕食をとるために藤岡のパーキングに廻ったが、若者たちであふれていて混雑していたので、食べるのを諦め、桶川まで戻ってきてからレストランに入った。
溜まった新聞を読みながら整理した。
29日の夜に新年度予算案や道路特定財源の法案が自公の強行採決で衆院を通過した。予算案は参院で議決されなくても1ヶ月で自然成立することになっている。だから29日なのだ。道路財源法案はそういうわけにはいかないので、これから1ヶ月与野党の攻防が続くことになるのだろう。一国民としては、道路の整備よりもガソリンの値下げのほうが緊急の問題だ。3月からまた原油高の影響で再値上げされるというので、上尾についてすぐにその足でいつも入れているスタンドへガソリンを入れに行った。まだ、先週と同じ値段のままだったので、ほっと胸をなでおろし、満タンにして帰った。
2008年3月1日(土)
外仕事
朝からめまぐるしく天候が変化した。晴れ間が覗いたり、一面雲に覆われ雪が降り始めたり、午後になってようやく続けて陽が射すようになったので、外の仕事を少し久し振りにやった。先週まで雪に覆われていて気が付かなかったのだが、チュウリップの球根がいっぱい浮き出てしまっていた。霜柱などで押し出されてしまったのだろう。畑の土で覆土したが、また押し出されてしまうかもしれない。もう頭の先に新芽が伸び始めているというのに。そのそばで、福寿草が今にも開花しそうになっている。サンシュユやハナズオウ、ライラックなどの新芽も膨らんできている。妻の大好きなフキノトウも全部で8つ見つけた。
義姉たちの家を建てるため邪魔になるケヤキの木を切り倒すつもりで切り始めたが、大きな枝を
2本切ったところで、風が冷たくなってきたので今日はおしまいにした。
昨日買った電話機の取扱説明書で、壁掛け用の部品があるのがわかったので、注文をしようとヤマダ電機に電話をしたら、店に来なければ受付をしないと言われた。電話では間違いがあるといけないので、という言い訳を聞いて、まるでお役所仕事と同じではないか、と思わず怒ってしまった。いい年をしてまだ、すぐに頭に血が上るのは、直らないか
?

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思いつくままに(ジイの記録)