1999年4月30日〜5月9日

ドイツ旅行

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ドイツ旅行移動図
1日目フランクフルト到着 市内観光
ドイツ旅行初日、空の玄関フランクフルト空港からSバーンでフランクフルト中央駅へ到着 ドイツ国内都市間超特急ICE(Inter City Express)最高時速250km/h
で走る。これに乗るのも旅行の目的の一つ。
フランクフルト中央駅の表玄関の顔 フランクフルト滞在中の拠点となったホテル「マリオット」の部屋からの市内の眺望。
同じく市内の眺望。フランクフルトは第二次大戦で大きな破壊に見舞われたが、戦前の姿に忠実に修復されたという。 市内には、新しい建築物も多い。フランクフルトは国際見本市の会場としても有名。
大聖堂(Dom)正式には聖バルトロメオ大聖堂。神聖ローマ帝国の皇帝選挙、戴冠式の行われた教会で別名カイザードームといわれる。 同教会にて。高さ95mもあり、全景を写すのが難しい。Uバーンのレーマー・プラッツにある。1415年建設着手、1877年完成。
レーマープラッツ(ローマ広場)右側の塔はニコライ教会。1290年に王宮の礼拝堂として建立された。1日3回鐘がなる。 同広場の正義の女神ユスティシアの噴水(1543年建立)
同広場に面する旧市庁舎レーマー。中央の建物の2階には皇帝の間があり、神聖ローマ帝国皇帝52人の等身大の肖像画が飾られている。 翌日同所にはメーデー
2日目バーデンバーデンへ
ドイツ国営鉄道IR2473
IRは地域間急行でドイツの保養地として有名なバーデンバーデンに。
バーデンバーデン観光の目的はジイの仕事でごみ焼却場の余熱利用施設としてクアハウスを検討しているので参考にするため。
バーデンバーデンのカラカラ浴場の入口。四角いエリアはロッカールーム。ドーム屋根がクアハウスエリア 洞窟のような所から打たせ湯のお湯が出ている
クアハウス クアハウスの中大きなプール。ネックシャワーやフローティングが周りにある
外のプール。室内のプールから潜水して外へ出ることができる 外のプールは流れるプールになっている
クハウスの中。赤外線の日焼けサロン風、この2階はサウナで、そちらは裸のエリアで男女混浴のため撮影禁止 バーデンバーデンのカジノの前庭、おしゃれな街灯がある
カジノの全景 街の中を流れるオース川
街の中は花があふれていた 建物にはおしゃれな飾りが付いている(これは時計屋さんの鐘) お店の看板もこうありたい
街の中央にはやはり教会がある シュティフト教会 トリンク・ハレ英語ではドリンク・ホール 温泉の後には一杯?
コリント式の列柱。ここはアルコールではなく、湧泉水を試飲できる トリンク・ハレの壁画 シュバルツバルト(黒い森)に伝わる伝説を題材にした14枚のフレスコ画
バーデンバーデンからフランクフルトに戻ったあと、市内ハウプトヴァッハにあるゲーテハウスへ 入り口(左)と出口(右) マイン川と河畔の遊歩道
マイン川に架かるアイゼルナー橋の上にて
3日目ライン川下り、コブレンツ観光、ケルンへ
ライン川下りのためフランクフルトからリュウデスハイムへ電車で行ったが電車が停車せず次の駅(写真)カウプで降りる羽目に 船着場がわからずジイのヤマ勘を頼りに川に沿った道を約20分歩く(背中が泣いている・・・)
ヤマ勘があたり何とか船着場を見つけ、得意そうなジイ。先ほどの泣きそうな顔が・・・一転笑顔に 当初の予定では、リューデスハイム観光をしてから船に乗る予定がそれができなくなったので早目の乗船となった
カウプのライン川の中州に建つプァルツ城 ここでライン通行税を徴収 この城を管理したのが山の上のグーテンフェルス城 そのグーテンフェルス城 望楼の高さだけで35mある 予定外で降りたカウプ駅の背後の山の上にある
ライン下りのハイライト「ローレライ」このあたりは川幅が狭く、最も深い所で流れが渦ができ船にとって難所であった 岩の上で手琴を奏でる美しい乙女ローレライにまつわる伝説の場所
ローレライを過ぎ次の寄港地ザンクトゴアールハウゼンの背後にそびえるブルク・カッツェネルボーゲン(猫城)季節柄こいのぼりが泳いでいた ザンクトゴアールハウゼンで乗客の大半が下船し、のんびりとコーヒーを飲むジイ(コーヒー1杯6.8DM約540円)
ザンクトゴアールハウゼンの船着場。当初の予定ではここで下船してあとはコブレンツに電車で向かう予定をしていたが船でコブレンツまで行くことにした コブレンツでライン川はモーゼル川と合流する 右がライン、左がモーゼル
モーゼル河畔 こちらに沿って中心街がある コブレンツの中心街の広い交差点に面した建物のデザインが目を引く
コブレンツのメインストリートにあるベルツ・イエス教会 メインストリートレーア通にある噴水
コブレンツ中央駅ここから一路ケルンへ ケルン中央駅
ケルン駅前にそびえる大聖堂(左)と一泊した駅前のコマーツホテル、駅前のツーリスト・インフォメーションの紹介 ツイン・バス付き165DM(約13,200円) ケルン旧市庁舎 前庭の地下には10世紀ローマ支配時代のユダヤ人シナゴグ(地下礼拝所)がある(ガラス張りの地面から見られる)
ケルンはケルシュナービールで有名 ガイドブックにあったフリュー・アム・ドームで夕食 ケルンのビールは度数3.8%と軽い 250CC2杯ずつ、とソーセージ料理各1で約3,200円 ビールは1杯200円弱
ケルン大聖堂 高さ157m奥行き144m 幅86m
1248〜1880 大き過ぎてそばからは全景が撮れない
ローマ・ゲルマン博物館から大聖堂をのぞむ
4日目ケルンからボン市内観光、リューデスハイム
デュッセルドルフ行きを変更し臨時首都ボンへ ボン駅
ケルンから電車で20分、首都とは思えない静かな駅前
ボンはベートーベンの生誕地 生家を訪ねたがガイドブックには開館10時が実際は11時でまだ開いてなかった 時間がなく入館できなかった
ボン市庁舎とマルクト広場(左)中央郵便局とベートーベン像 像の頭には鳩が ミュンスター寺院と同広場の市場、これから開く準備をしていた
ちょうど日曜日のため閑散とした目抜き通り 閉まってるパン屋さんのシャッター 由緒あるお店、創業何年という看板はなかった
新旧の建物のコントラストが目を引く ボン大学のキャンパス マルクスやハイネも在学していた 私も入学万歳!
ボンから電車でコブレンツへ ここでこの電車(2階建て)に乗り換え、ライン川に沿ってビンゲン駅まで乗車 ビンゲン駅から対岸のリュウデスハイムへ渡し舟で渡る当初昨日観光予定を変更したもの
船着場からリュウデスハイムの中心までは上り坂 坂の途中には大きな十字架があった なぜここに立っているのかはわからない 坂を登った所に更に高台にそびえるニーダーヴァルトへ登るゴンドラリフトに乗る 二人のりリフトから見えるリュウデスハイムの街とブドウ畑
丘の上のニーダーヴァルト・デンクマール(記念碑)ドイツ帝国の再興と統一を象徴する記念碑
1887〜1883年に建立
丘の上からのリュウデスハイムとライン川
リュウデスハイムの目抜き通り「ツグミ通り」にて 帰りは駅に電車がちゃんと停まった リュウデスハイムからフランクフルトに戻り同地最後の夜ガイドブックにあった「Haus Wertheym]で夕食
店内はアンティークなビールジョッキや絵皿、ステンドグラスなどが素敵でした
5日目ベルリンへ、ベルリン市内観光T
旅の後半はベルリンへフランクフルト中央駅で前日指定席を確保し、ICEで一路ベルリンへ 560キロを4時間56分で ベルリン到着(午後1時)後早速市内観光 カイザー
ウィルヘルム教会を見学 第二次大戦で破壊された形で残されている
3年前は修復中で見学ができずぜひとも今回は見ておきたかった場所 モザイク壁画の茶色い線は壊れて修復した跡 教会の祭壇にあったキリスト像一部壊れている
次に向かったのはまだベルリンの壁が残るイースト・サイド・ギャラリーへ
壁のあるシュプレー川に架かるオーバーバウム橋 まだ新しい
1961年8月13日一夜にして築かれた壁
28年間文字どおりベルリンを東西に分かつ壁であった
たくさんの小さな群れによる たくさんの小さな所での たくさんの小さな行動が 世界を変えることができる・・・と書かれている?ジイの訳 壁のとおりの一角には瀟洒なレストランがあった
6日目ザクセンハウゼン強制収容所、ベルリン市内観光U
地下鉄車内からフリードリッヒシュトラーセ駅の近くの開発風景 ここは首都ベルリンの中でも中心に近い所 旧東ドイツ側 ザクセンハウゼン収容所のあるオラニエンブルグ駅 電車はユーロの通貨統合のロゴマークになっていた車内ではユーロのアンケート調査が行われていた
オラニエンブルグ駅 収容所はここから徒歩で20分ぐらいの所にある 今回のドイツ旅行の一番の目的がこの収容所の見学。その収容所の入口、思わず足がすくむ。
点呼場所。ここに集められた人たちはどんな思いでこの場所にたったのだろう? 点呼場所の中央には見せしめのための絞首台があった その跡地には花束が・・・
レネ・グレーツ作「開放」と題されたモニュメント 火葬場、銃殺場、最後はガス室もつくられた場所。
こういう残虐なものをありのまま残し、見せるドイツと何事もなかったようにしようとする日本の違い。
逃亡監視台、自由を奪った者が奪われた者を見張る・・・。同じ人間でありながら犯罪者でもない人を隔離し、自由を、命を奪う・・。 塀の前には逃亡を阻止するバラ線が張られ、電流が流されていた 奥の二つの建物はユダヤ人を収容していた棟を再建したもの
監獄棟の独房。1961年原型のまま残されていた入口のドアと格子窓を取り付け復元された。 収容所の中でも離れた所に設置されていた。密かに「バンカー」「吊りステーキ」といわれる残忍な処刑が行われた。
病理学的な研究用に使われた死体安置所内の実験台 午後は、シャルロッテンブルグ宮殿へ
初代プロイセン国王フリードリッヒ1世の妃ゾフィー・シャルロッテの夏の別荘
1695年から3期に分けて建設され、現在の形になったのは1790年。入場は午後5時まで。遅く行ったので入場できず。 ベルリン市内で最も美しい広場といわれるジャンダルメンマルクトに建つコンツェルトハウス・ベルリン
コンツェルトハウス・ベルリンを中央に左右に同じような形の教会が建っている。左がドイツ・ドーム、右がフランス・ドーム
7日目リュウベックへ、市内観光
世界遺産登録のリュウベックへ。ベルリンからICでハンブルグへ約2時間30分、ハンブルグからローカル線で約40分でリュウベック着。 後はリュウベックの駅。駅構内のインフォメーションでホテルを予約してから市街地へ。地図を広げていると行き方を教えてくれる親切な人がいた。
テレビや本で見ていたリュウベックのシンボル的な建物ホルステン門の絵画的な景色が見えてきた 二つの塔からなる城門、1464〜78に建てられた厚さが3.5mもある壁の重みで一部が沈み込み傾いている。50マルク紙幣の裏の絵に使われてる
入口には金文字のラテン語で「内では団結を、外には平和を」と刻まれている 旧市街の方から撮影。左手には煉瓦造りの倉庫が並んでいる
二つの尖塔からなるマリエン教会1250年から100年かけて建てられたゴシック様式の教会、会堂の中にはかのバッハが聞き惚れた世界でも最大級のパイプオルガンがある 1941年の空襲で教会が破壊され、落ちて地面にめり込んだ尖塔の鐘を、そのままの形で平和への願いを込めて残されている
左はマリエン教会の中にある星座時計、右は祭壇大きいが質素、ステンドグラスも大変質素である、戦災のため? もう一つの大教会聖ペトリ教会。現在は教会としては使われていない。エレベーターで展望台へ。リュウベックの街が一望できる
聖ペトリ教会の展望台から。13〜14世紀にハンザ同盟の中心地として栄えた面影が偲ばれる。 川沿いの旧市街、この一角にあるホテルに一泊
ホルステン門の向こう側が新市街で道路の先にリュウベック駅がある 市庁舎とマルクト広場
ガイドブックにも載っていない旧市街の川のそばの小さなレストランに入り昼食、店のお客さん(常連風)がシャッターを押してくれた その日のランチ定食の一つをオーダー。辞書で調べたがわからず紙に書いてもらった後で調べたら「焼きにしん」と判明。Brathering
市庁舎、最も古い部分は1230年頃に建てられている。うわ薬が塗られたリュウベック特有の黒レンガが特徴的。 市庁舎では今でも執務されている。ジイもこんな所で仕事をしたい、と背中が言っている。
世界遺産の街だけに観光客が多いが、さすがに日本人はほとんど見かけなかった。 船員組合の家、1535年に船主組合員のクラブハウスとして建てられた。現在はレストランになっている。夕食はここで。
レストラン内。フランスへ塩を運んだ船にボルドー産のワインを積んで帰った。このワインがリュウベックで熟成し、本場ボルドーよりおいしくなったといわれ、名物になった。 レストランの中の船のミニチュア。店内は船内のキャビン風の雰囲気。
聖霊養老院。13世紀に建てられた福祉施設。(救貧院兼病院)既にそんな時代から福祉施設があったんだ・・・。 人形劇博物館。700種類の人形を集めている。
人形博物館内部の操り人形 中国風人形
リュウベック名物マジパン(アーモンドの粉で作った砂糖菓子)このニーダーエッガーというお店が一番人気のお店 バルト海から北海へと続く川、ここからハンザ同盟の富が蓄えられた
煉瓦造りの倉庫群。今はレストランになっている 一泊したホテル「アルター・シュパイヒャー(古い倉庫の意)」
8日目ハンブルグ市内観光、ベルリン市内観光V
ハンブルグ市庁舎。北海に通じる人造湖アルスタ湖に面している。州議会の議事堂も含まれる。1886〜1897年建設。 左、中央に見える教会は聖ペトリ教会。
聖ミヒャエル教会の前に立つ、マルティン・ルターの銅像。12時から行われた観光者のための小礼拝に出席。 高さ132メートルの教会の尖塔に、エレベーターがあって82mの所に展望台があり市内が一望できる
ハンブルグからベルリンに戻り(6時半pm)、ドイツ最後の時間をブランデンブルグ門見学に使うことにした ブランデンブルグ門からウンターデン・リンデンの通り、開発が3年前に比較して進んでいる。
ウンターデン・リンデンの通りから、3年前に登ったテレビ塔が見える ベルリン国立オペラ座。この日はオペラ開催中で入口に明かりがついている
マルクス、ヘーゲル、アインシュタイン、グリム兄弟を輩出したフンボルト大学、私も一歩入学? ベルリン大聖堂。3年前に公園になっていた所が現在は改修中
右の写真の1835年当時の姿に復元するための工事をしているようである 写真の右側がベルリン大聖堂。中央が光って見えにくいが左の写真の建物
9日目ベルリンからフランクフルト経由で帰国の途へ
左5/4,5/5,5/7の3日間泊まったホテル「カリフォルニア」1泊165DM
右ベルリン動物園(ツォー)英語でズー。日本語でゾー(象)・・ジイの駄洒落
左カイザーウィルヘルム教会
右ヨーロッパでも最大級の老舗デパート「カー・デー・ベー」
ベルリン・テーゲル空港、フランクフルト経由で成田へ 10日間旅の思い出と荷物を詰め込んだバゲージ

@  司令官のエリア
A  司令官の住居
B 大通りの元の入口 隣接する親衛隊のエリアは、ドイツ共和国人民軍により軍事目的に使われてきたために、記念館が1961年にできたとき、新しい入口が作られそれが今も使われている。
C 親衛隊用カジノ「緑の館」
D  新博物館
E   A監視塔 収容所の入口で、親衛隊の指揮官室、郵便検閲所、当番兵詰所からなりマシンガンを持った監視兵がいた。
F 点呼場所 囚人の点呼場所であると同時に見せしめのための処刑場としても使われた。1940年に製造した軍靴のテスト用に整備された運動場では、懲役囚が来日も来る日も軍靴の底の強度試験のため行進させられていた。1961年この点呼場所に作られた、T字に型どられた記念碑の壁には、元の建物の切妻の壁の一部が埋め込まれている
G   絞首台跡地 点呼場所に集まった囚人たちの前で、逃亡を企てた者等を見せしめとして処刑した。クリスマスには、親衛隊がここにクリスマスツリーを飾った。
H   小収容所 1938年に建てられた収容施設で、主にユダヤ人が194210月にアウシュビッツに送られるまでここに収容されていた。
I     38号棟、39号棟 19929月イスラエルのラビン首相がザクセンハウゼン記念館を訪問した数日後に、1961年に再建されたこのユダヤ人収容棟が右翼過激派によって放火され、大きな被害を受けた。
J    刑務所 1936年に80室からなるT字型の建物として建てられ、ほとんど真っ暗な独房と大部屋とがあり、ゲシュタポによる特別囚人の刑務所として使われた。残っていた基礎の上に、原形で残されていた部屋のドアや格子の窓を使って、1961年に建物の一部が復元された。収容所の建物群から離れていたため、密かに「バンカー」や「吊るしステーキ」といわれる非常に残忍な刑罰を行う設備も置かれていた。
K    囚人用調理場
L    囚人用洗濯場
M    レネ・グレーツ作「解放」と題された石の彫刻記念碑と演台 1961年の記念館開館のときに建てられたこの記念碑の頂上に赤い三角形が描かれているが、このマークが政治犯を表すものであったため共産主義政権のドイツ共和国政権から唯一賛辞を受けた。
N   火葬場兼虐殺の場 ステーションZ このエリアは、工場用地の一部で、収容棟群からは壁で仕切られていた。1939年秋から虐殺の実験と臨時火葬場となった。少なくとも12,000人のソビエトの戦時捕虜が1941年秋にここで殺されました。1942年春には、新しい火葬場と銃殺場が立て続けに建てられました。1943年にはガス室も加えられました。1953年に建物が爆破されましたが、その後、収容所の塀の復元と合わせて、残っていた基礎の上に大きな記念ホールが建てられ、記念館に編入されました。
O     銃殺用溝と銃弾受け、自動絞首台(一部復元)
P     工場用地 ここは、親衛隊の作業場であり、製造設備がありました。この中で囚人の強制労働も行われていました.
Q    石造りの特別収容棟 この場所は、連合国軍の捕虜用に1941年に建てられました。1945年〜1950年まではソビエト秘密警察(NKWD)の第2特別収容所として使われました。ここには、ソビエト軍事裁判所から送られてきた人達に混ざってドイツ将校も収監されていました。
R    共同墓地 ソビエトの特別収容所時代(19451950)の死者の墓地の一つとして1995年に作られました。
S    診療棟R1,R2 もともと5棟あった診療棟のうち2棟が残りました。こちらは当時来賓や外国の使節団、ジャーナリストの接待用に使われていました。同時に囚人に対する医学的な人体実験や大量殺戮のための選別の場所としても使われていました。
21 病理学研究用死体置き場
22 墓地 少なくとも300人の囚人がこの場所に埋められています。彼らは収容所の解放のわずか数週間前に診療所内で亡くなりました。
23 武器製造所、武器保管庫と司令官の放送施設

ザクセンハウゼン強制収容所見取り図

ザクセンハウゼン記念館・博物館の歴史

                           ※
英文パンフレットからジイ訳

ザクセンハウゼン収容所時代(19361945)

 ザクセンハウゼン強制収容所は、1936年の夏にエムスランドの収容所から集められた囚人たちによって建設されました。この収容所は、1936年ドイツ警察長官に任命されたハインリッヒ・ヒムラー(後のナチ親衛隊長)が手懸けた最初の収容所です。ここの土地の利用計画は、親衛隊の建築家たちによって考案され、その後の強制収容所の理想的な配置の仕方について親衛隊の考え方に建築上の影響を与えるとともに、親衛隊の圧倒的な支配力で囚人たちを屈服させるための象徴的な建物にもなりました。ザクセンハウゼンは、ドイツ連邦共和国の首都の郊外という立地条件もあって、ほかの収容所のモデルにもなり、民族社会主義者(ナチ)の強制収容所のシステムにとって特別な役割を担うものとなりました。1938年にドイツの覇権内の全強制収容所を統括する司令部が、ベルリンからこの収容所のあるオラニエンブルグに移転したことに伴って、役割はさらに強化されました。

 1935年から1945年の間に、ザクセンハウゼン強制収容所には20万人以上の人が収容されました。初めの内はほとんどがナチ政権に反対する政治犯が収容されていましたが、後には民族社会主義者(ナチ)によって人種的、生物学的に劣るとして差別された人達の数が増えていきました。1939年になると、ヨーロッパ中の被占領国から多数の市民が連行されてくるようになりました。彼らのうち、1,000人に10人は、飢えや病気、強制労働、虐待によって死亡し、親衛隊による組織的な皆殺し作戦の犠牲になりました。ほかにも何千人という人が、19454月の「死の行進」といわれる収容所からの撤退の際に亡くなりました。収容所に残っていた約3,000人の病気の囚人と医師、看護婦が、ポーランドとソ連の連合軍によって解放されました。

ソビエト特別収容所時代(19451950)

 19458月に拘置所として、ここにソビエト第7特別収容所が移されてきました。火葬と虐殺に使われていた建物を除いて、それ以外の建物は以前と同じように使われました。ナチの元党員や政治的に好ましくないとされた人、理由もなく連行された人、ソビエト軍事裁判所から送られてきた囚人などが収容されていました。1948年には、ソビエト占領地内の3つの収容所の中で最も大きな収容所になりました。1950年春に収容所が閉鎖されるまでの間に、約60,000人が収容され、少なくとも12,000人が栄養失調と飢餓で亡くなりました。

ザクセンハウゼン国立記念館時代(19611990)

 ソビエト軍によって使用されてきた土地と建物が、1956年にドイツ共和国に返還され、国と人民警察はザクセンハウゼン国立記念館設立の準備を始め、1961422日に記念館がオープンしました。この記念館を計画した人達は、残されていた構造物をそのまま全て残すのではなく、「反ファシズムの勝利」を記念する記念碑と、もともとの建物のごく一部を修復して1ヶ所に集め展示する方法をとりました。

ザクセンハウゼン記念館と博物館(現在)

 ベルリンの壁の崩壊に続くドイツ統一の後、この記念館は1990から1992年の間、一時的にブランデンブルグ州科学文化研究所の管理下に置かれました。19993年の1月からザクセンハウゼン記念館と博物館は、ドイツ連邦共和国とブランデンブルグ州の共同出資によって設立されたブランデンブルグ記念財団に移管されました。ヴィットストック近郊のベロヴァーの森にある「死の行進博物館」(1981年建設)とともに記念財団が運営しています。この森には、19454月末から5月初めにかけて、親衛隊によってシューベリンに向けて死の行進を強いられた18,000人の人々が眠っています。
ドイツは1991年のJTBヨーロッパ旅行、1995年の新日本トラベル東欧5カ国旅行の各ツアーで訪問しましたが、ツアーなるが故の哀しさで、ゆっくりと時間をかけて見学できませんでした。そこで、今回は企画から全て自分たちで設定し、往復の飛行機と到着地の初日のホテルの予約、ドイツ鉄道の10日間有効のツインレイルパスをGIOクラブで手配し、旅行したものです。何から何まで用意してくれる添乗員付きのツアー旅行も捨てがたい(歳をとるとなおさら)のですが、個人旅行も不安や失敗、足回りの不便さなどもありますが、苦労した分旅行地での印象も強く残ります。
赤P数字は「地球の歩き方ドイツ」、個数字は昭文社「個人旅行ドイツ」の掲載ページ
青数字
はトーマス・クックのヨーロッパ鉄道時刻表の掲載ページ
旅行5日目にベルリン郊外のオラニエンベルクにあるザクセンハウゼン強制収容所を見学しました。見学の際にもらった案内書が、日本語訳がなく英文だったので、帰国後辞書を片手に翻訳を試みました。かなり直訳的で読み返すとおかしい所もあり、誤訳だろうと思われる個所もありますが大体の意味がわかればそれでよしとしましょう。海外旅行では、土地の人との会話は大体アバウトなものなのです。
ドイツ旅行行程表(1999年)  
1 第1日 4月30日(木)
  フライト  成田   発  10:05 第2ターミナル 自宅出発 6:00
LH711  フランクフルト 着 14:55 飛行時間 11:50
・空港到着ターミナル1のレベル1   P24 フランクフルト路線図 個P92
・ジャーマンレイルパスの使用開始の日付記入(ドイツ鉄道窓口はレベル0にある)
・Sバーンの空港地下駅はレベル−1
・中央駅へはS-8で15分間隔、3駅目(所要時間11分)
宿泊ホテル Frankfurt Marriott
ホテル到着後市内観光する (翌日のホテル探し→Frankfurt Marriottに予約OK)
2 第2日 5月1日(金) バーデンバーデン P136、個P252
バーデンバーデン行き
フランクフルト   発   7:51(IR2473) 910
バーデンバーデン着   9:34 駅から市街地までは1番のバス 
Leopoldsplatzで下車
・カラカラ浴場  2時間19DM
・クーアハウスとカジノガイドツアー 9:30〜12:00 4DM
・トリンクハレ散策
・新宮殿のテラスからの眺望
バーデンバーデン発 12:41(IC102) 910 
マンハイム着 13:25 乗換 13:32(ICE796) フランクフルト着 14:11
フランクフルト泊 Frankfurt Marriott
着後フランクフルト市内観光する ホテル(5月3日の予約→Frankfurt Marriottに予約OK)
3 第3日 5月2日(土) ライン川下り、ケルン
ライン川下り
フランクフルト   発   7:53(コブレンツ行き) 913 リュウデスハイム下車予定が列車停車せず、次のカウプ駅で下車したため、リュウデスハイム観光を翌日の帰りに変更した。またライン下りを当初のリュウデスハイム〜ザンクトゴアールハウゼンをカウプ〜コブレンツに変更した。
kaub(カウプ) 下車 ライン観光船(KD)に乗船 コブレンツ下船
コブレンツ市内観光
コブレンツ発  14:41(IC714)
ケルン  着  15:30
ケルン着後ホテル予約 市内観光 ケルン泊 P83,個280
4 第4日 5月3日(日) ボン、リューデスハイム
ケルン 発 8:27(IC119)  ボン  着 8:47
ボン市内観光 予定していたデュッセルドルフ観光を断念し、ボン市内観光に変更。前日予定していたリューデスハイム観光をするため、ライン川を挟んで対岸のビンゲンからリューデスハイムに渡った。
ボン 発 11:20(IR2217)  ビンゲン着 12:48
ビンゲン発13:05 リューデスハイム着13:15(ライン観光船)  P61
リューデスハイム観光
・つぐみ横丁
・ニーダーバルトのゴンドラリフト 往復8DM
帰りはローカル線でフランクフルトへ(約1時間10分) 着後翌日の列車座席指定 フランクフルト泊  Frankfurt Marriott
5 第5日 5月4日(月) ベルリンへ
フランクフルト 発 8:15(ICE896)
ベルリン   着 13:01
ホテル予約チェックイン後、ベルリン市内観光@ P244 個388 ベルリン駅infoでホテル予約
ベルリン泊
6 第6日 5月5日(火) ザクセンハウゼン収容所
地下鉄でフリードリッヒシュトラーセ駅へ S-1でオラニエンベルク駅へ(所要時間約40分)
オラニエンベルク駅から徒歩約20分 ザクセンハウゼン収容所  P263
午後ベルリン市内観光A ベルリン泊
7 第7日 5月6日(水) リュウベックへ
ベルリン・ツォー駅 発 9:27(IC876) 840
ハンブルグ     着 11:52
発 12:15 リュウベック 着 13:04 リュウベック駅infoでホテル予約
ホテル着後リュウベック市内観光  P398 個370 リュウベック泊
8 第8日 5月7日(木) ハンブルグ、ベルリン
リュウベック   発 9:03 825
ハンブルグ   着 9:45
ハンブルグ市内観光    P379 個344
ハンブルグ    発 16:48(IC705) 840
ベルリン・ツォー駅 着 19:32 ベルリン泊
9   10 第9日〜10日 5月8日(金)〜9日(土) 帰国の途へ
ツォー〜テーゲル空港  市バス109番
テーゲル空港 発 14:35 LH1023
フランクフルト  着 15:40
フランクフルト  発 17:35 LH714
成田     着 11:55